昭和四十八年七月二十九日 御理解第五十三節
信心すれば目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い。知ったおかげより知らぬおかげが多いぞ。後であれもおかげであった、これもおかげであったと云うことが解るようになる。そうなれば本当の信者じゃ。
本当の信者を目指さなければならぬ。話を聞いただけで金光様(教)の信心が分かった、分かったと云うだけでは本当の信者とは云えない。
本当の信者は、あれもおかげであったこれもおかげであったと分かる様になる。昨日の朝の御理解等頂いとりますと、金光教の信心の頂きどころと云うか、素晴らしいところを説明して頂いた様な御理解でありました。
だから確かに昨日の御理解を頂きますと金光教の信心が分かるのです。けれども分かっただけではいけん。おかげの実感と云うものが日々様々な中にあって、あれもおかげこれもおかげと一切をおかげと頂かれる様になると仰せられる。信心をしておると段々そういう風になると仰せられる。
けれども十年も二十年もいやその上も信心させて頂いておるけれども、ならあれもおかげこれもおかげとおかげの中に浸っておる様な生活をしておる人は非常に少ない。恐らくその人が、例えば一生その様な信心を例えば続けておったからと云うてあれもおかげこれもおかげと云うおかげの世界に住んでおる、住めれると云うことはない。
昨日あたりの御理解に信心の根本的なところを把握して、そして信心の稽古をさして貰うところからでないと私は今日の御理解は分からないと思う。
今迄信心すれば眼に見えるおかげより眼に見えぬおかげが多いと仰る眼に見えないところのおかげが分かって來る。多い方のおかげが分かって來る。同時に様々な問題の中に私共あるわけですけれども、その問題そのものがおかげである。
あれもとは過去にあった様々なこと、又現在踏んまえておるところの難儀、様々な様相の中に在るわけですけれども、そのことも難儀ではないおかげであると、これもおかげであると分かると云うことです。
金光教の御信心は、例えば過去信心のなかった現在五十歳になる人が十年前から信心を始めたとするとです、四十歳迄は信心が無かったけれど四十歳迄の事を信心させて頂いておかげを受けて考えると四十年と云う間の神様のおかげを受けておった事が分かって來る。ですから過去の一切が生き生きとして息づいて來る。
過去にああ云う忌まわしい事が無かったらとか、過去にああ云う難儀なことに合わなかったらこう云うこともなかったろうにと云う考え方が無くなって來る。ああいう様なことがあったおかげで、こういう事になったおかげで、あれやらこれやらが御神縁を頂く基になった。神縁を頂いてからかくおかげを頂いて来たと云うのですから過去の一切が生きて來るわけです。だから信心とはそういう風に一切を生かして行くことだと云う風に云えます。
それを生かされたときに初めて、あれもおかげであったと云うことになるわけです。過去の事が生かされてきた。ですから今日的難儀と申しますか、今日今自分が感じている難儀と云うものもこれもおかげの基に違いはない。これもおかげの元に違いはないとおぼろげながら分かってきた。
そのおぼろげと云うのが体験を積んで行くうちに、いやこれも神様のおかげだと、神様のいわゆる御都合だとそれを頂き抜く信心から神様の働きを働きたらしめる働き。久富繁雄さんが仰っとられる処がそれです。今日的な問題、様々な問題、自分はああありたいこうも願っておるけれども、そう思う様にならない。それを神様の御都合として受ける潔い信心が必要なのです。
私はそういう潔い信心がなければ神様の御都合としては受けられないと思う。例えば、それが大きな問題であったりそういう場合は神様の御都合としてそれを合掌して受けてはじめて分かるのは神様の働きを働きたらしめるものであったと云うこと。
神様がこういうおかげを下さろうことの為にここの云うならば難しい関所も通らせて下さったんだと云うことが分かる。
ですからその時点でです、潔くそれを合掌して受けれる信心が一番望まれる訳であります。そこから過去も生きて來る現在も生きて來る。未来にはいよいよ有難い道が開けて來ると云うようになって來るのです。それはもう皆様も体験しておられる。
皆さんの場合はいろいろの体験を持っておられますから、例えば五年も信心が続いたと云うことならば、本当にあの時もああいう事があったのはおかげじゃったなあとおぼろげながら分かってきた。ですから現在の問題もですおぼろげにはです、これがおかげの基になるとじゃろう、これが力を受ける基になるとじゃろう位のことは分かる。けれどもすっきり分かってないから難儀を感じとる、不安がある、心配がある。それをおかげと感じ取らせて頂くところにもう誰に願う、誰に縋ると云うことは絶対いらない。只神様一心に縋って行きゃえいと云う過去の実績から考えても、過去に頂いたおかげから云うてもそれをおかげにして行かねばと云う事になって來る。だからそこにこれをおかげにして行かねばならんと云う思い込みと云うかそこが大事なんです。
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日奈久教会の富永先生が、ここに椛目の時代から御縁を頂いておられる。仲々御自身も全身に病気を持っておられると云う具合いに病弱な方である。見かけはえらい健康の様にしとられるけれども、そんなに体が弱い。もうそれこそ信者一人いない日奈久の教会に日奈久の地にそれから六、七年間それこそ大変な難行苦行が続いた。そういう時に偶々合楽のこと、当時の椛目のことを聞かれてお参りになるようになった。そういう時代にです、まあ小さい布教所ですからもう話を聞くとがらっと戸を開けるともう日が射し込んで、もう上がった所がお広前でそこにはもう日が射込んで夏なんか暑うしてたまらんと云った様なお家だったらしい。それからやはり雨露凌がせて貰うておることがです、有難い。大家さんもようして貰うしと云うことであったけれども、なら良うして貰っとった大家さんがその家を出てくれと云うことになった。しかも本年いっぱいで出てくれと云われたのがもう十二月になってからです。
それこそ安い家賃だったでしょうから家賃も滞ったこともないのに、余りそう冷たく云われるもんですから、それで夫婦でそれこそしら真剣な事でお参りになられた。そして例えば、大家さんが出てくれと、さあ行く先はないのに出て呉れと云われても仕様がない。大変難儀なことなんだけれども、神様はそれはおかげぞ神様の御都合ぞと頂いた。大家さんがいかにも大家さんがそれこそ鬼の様にも見える時でしょう。そういう時には責めたてられる。借金なら借金を責めたてられる時には、責め立てる人が債鬼と云う。もうそれこそ鬼に様に見えるけれども、御神意を頂きますと信心させて頂いとる者の上には、それはおかげぞ、神様の御都合ぞと云うことが分かる。そういうお取次を頂かれた。
それは冷たい仕打ちの様であるけれども、例えばちらちら降る雪の一片一片をです、顕微鏡で覗かせて貰うともうそれは見事なあれは幾何学模様と云うのですかね、丁度レース編みをなさる様なああいうそれこそ人間の手で出来る事ではない様な素晴らしい天地の親神様の手の混んだ細工とでも申しましょうかね。と云う様に冷たい雪の様であるけれどもです、それは神様の手になった、神様のお心がそこにその様にして微妙なまでに表れて居ることであるから、これは冷たい仕打ちと頂いちゃならん。神様の御都合として合掌し受けて行く元気な心にならなければいけませんと云う御理解を頂いて元気が出た。
今、熊本の信者さんの中で今有名になって居られる御信者さんが、その時分に御神縁を頂かれた。兄弟でお参りされる様になった。親戚中でお参りされる様になった。そしてその話を聞いて、ならばどうでも家を探しましょうと云うごとなって、それこそ日奈久の中心の街ではあるけれども、ずっと引っ込んだ静かなところにわざわざ教会の為に造っとったかと思われる様な家が見つかって、年末のギリギリ今年いっぱいで出て呉れと云われて、丁度元旦祭はその移られたお家でおかげを受けられる様になって来た。
例えばその小さいお家ですよ。ならば大家さんが仏様の様な人で、ああいいですよ、いつまで居ってもらっても良いですよと云ったらそげなおかげにならなかったでしょう。そこにそうした神様の働きを働きと受けて神様の御都合と頂いて行くところに神様の働きを働きたらしめられた訳です。
本当に私共の上にはです、困ったことだ、難儀なことだと云うておるけれども決して困ったことでも難儀な事でもない。それは神様の特別な働きを頂いて居るしるしだと思うて、それを合掌して受けて行く信心が大事なんだ。そこにいわば,そこを通ってみて本当にああいう情けない思いをしたけれども、あのことがおかげであった、あの鬼の様な顔の例えば、見えたであろう大家さんの鬼の様な姿があの中に神様の姿があったんだと分かる時に、あれもおかげであったと分かる様になる。ですから次に問題が起こってもです、これも神様の御都合に違いないと受ける度胸が生まれて來る。そこんところを、あれもおかげであった、これもおかげであった事が分かる様になると仰せられます。
だから一偏に分かると云うことではない。体験を積んだ上に積んで初めて分かる様になるのである。そしてあれもおかげであった、これもおかげであったと分かる様になるところからです、今迄気が付かなかった信心しておれば目に見えるおかげより眼に見えぬおかげの方が多いと云う、その眼に見えないおかげの多いそのおかげが分かる様になる。だからおかげの中にいつもある自分と云う、神恩報謝の心と云うか、有難い勿体ないの中に毎日過ごすことが出来る。それを本当の意味に於ての信心生活と云うのである。
そういう風にあれもおかげであった、これもおかげであったと分かれば、いわゆるここに真実の信者と書いて真実(ほんとう)の信者じゃと云われて居ります。お互い折角信心させて頂くのですから本当の信者にひとつならせて頂かにゃならん。見かけはもう何十年信心しよります、云うことだけはもうそれこそ、和尚の様なことも云える様になる。如何にもよか真実の信者のごとあるけれども、問題に直面したときにです、そこにもう難儀を感じる様なよろよろしている様であるなら、それは本当のものじゃなくて偽物だと云うことになる。もう良い加減十年も信心しよるならこの辺のところがわからにゃならんところに実際の問題に直面したときにわからんとするなら、まだまだ自分の信心はよろよろであって、真実のものでないことを悟らせて貰うて、いよいよ実意の信者を目指さなけりゃならないと云うことであります。 どうぞ。